1970年代、知的生産の技術という本が登場した。
1枚のカードに1項目を記入して、それを整理して、保存して、活用するというもの。
はじめは、順調に、カードが増えていくのだが、それが、1000枚、10000枚、100000枚となってくると、どこかに限界点が来て、崩壊する。
かならず、崩壊する。
カードの蓄積が多くなると、その維持管理のために、莫大な時間が必要になり、生産する時間は、必然的に減少する。
自分も含めてだが、知的生産の技術に、成功した例をほとんど知らない。全滅といっていいほど、成功例は存在しない。
1980年代になると、パソコンが登場して、紙に変わって、フロッピーやハードディスクなり、保存できるようなる。
しかし、データが、1000件、10000件、100000件となってくると、パソコンの限界を超えて、崩壊してしまう。
この崩壊は、悲劇的な崩壊で、蓄積データが、ほとんど消滅してしまう。
そして、パソコンによる知的生産の技術は、破綻する。
さて、現在は、知的生産の技術は、どうなっているのだろうか。
最近は、あまり聞かないかもしれない。
しかし、現在は、知的生産だけできる時代になった。つまり、知的生産についてまわる蓄積と管理、整理をしなくてもよいようになった。なぜなら、あらゆる知識、データを、ほとんど、瞬時に取り出せるようになると、新聞の切り抜き、カードに記録などしておく必要はなくなった。
なので、知的生産のみに専念できるようになった。
かつては、テレビは、放送しっぱなし、新聞は、配りぱなしだったのが、インターネット上に、蓄積されるようになった。
それは、あらたな状態を生み出している。
人々が、忘れるということもないともいえるし、必要な時に、いつでも、確認することもできる。
写真も確認可能だし、音楽も、確認することもできる。文章もまた、確認できる。
新しい知的生産の時代でもある。別に、知的生産をしなくても、よい時代でもある。