新聞社、放送局には、収益性が悪くなっており、改善の見込みはない。

NHKは、受信料を納入(徴収?)する制度があるので、収入には、盤石なシステムを持っているようだが、天敵のNHKから国民をまもる会という政党が存在して、ねほり、はほりと、質問をしてくる。

そのため、NHKも、自由になにかを行うことはできない。

限られた日本という国土の中で、民放はひしめき合っているので、その存在や収益性を脅かすことをすることはできない。

 

放送も、法制度で、その存在が保証されているが、法は、政府によって、自由に変更可能なので、盤石とはいえない。

電波オークションなど、アキレス腱のような問題も抱えている。

民放のBSは、オリジナル番組を作るのは難しく、テレビショッピング、再々再々サスペンス劇場、韓国ドラマ、中国ドラマなどで、時間を埋めているような有様だ。

 

デジタル放送以前のアナログ放送をそのまま、デジタル放送で流すと、非常に見ずらい放送になってしまうので、アナログ放送のデジタル変換処理が必要になる。アナログ放送をデジタル変換して、その確認の場としては、意味があるかもしれない。

 

かつてのマスコミは、情報のダムを持っており、非常に高いエネルギーをもって、国民に放出することができた。

情報は、テレビ、ラジオ、新聞などのメディアを通じて、得ていた。

情報は、このダムで囲まれているため、勝手に漏れるということはなかった。

 

しかし、パソコンやスマホが普及すると、情報ツールとして活用され、情報は自由に流れ出すようになり、ダムの中の情報の価値は、新鮮さを失い、その価値は、どんどん薄まっており、世論を動かす価値がなくなってしまった。

 

そのための価値をなんらかの形で、持たせようとしてして、芸能人、知識人を情報にブースターをつけて、情報の方向性を持たせようとしている。

 

しかし、情報は、バラバラで、体系化されず、勝手な付加価値がつけられて、パワーになりにくい。

しばしば、暴走すると、炎上という現象を引き起こす。

 

マスコミには、捜査権などがないため、情報の確認を掴むことが難しい。

 

そのため、

 

マスコミが、体系的、鳥瞰的立場をもつことが難しい。そこに、マスコミには、見えない世界がある。

街中で、火事や強盗、事故の現場にいるマスコミは、野次馬と同じ程度の情報しかない。

しばしば、ご近所の人からのお話を行く程度で、情報の核心は、警察発表などを待つしかない。

しかし、警察もその立場からの発表しかしないので、全体像を発表しているわけではない。

 

それが、映し出す世界は、世界全体を写しているわけではない。マスコミには見えない世界だが、マスコミは、別に世界の全体を見たいわけではない。

 

世界の全体は、学者に任せておけばいいという感じだ。

 

 

さて、力や財力を失ったマスコミは、その存在意義を証明したいと思っている。

さもなければ、電波オークションや新聞の消費税軽減税率などの特権を失ってしまうかもしれないからだ。

マスコミは、特別でなければならない。

 

マスコミは、ネットの検索語などを手掛かりに、国民の反応を探ろうとしているし、その反応から、世論を動かそうとしている。

現在のところ、マスコミは、力を失いつつある。

 

1月1日の能登半島大地震、1月2日の羽田空港事故など、マスコミもリアルタイムで、情報を得ることはなかなかできないことを、露呈してしまった。