テレビが、放送局のアンテナを通じて、国民に送信されていた時代、情報は、放送局側にあり、それを入手するのは、放送されるタイミングで、その前にいなければならなかった。

新聞が、大量の紙を使って、そして、大量の人を使って、新聞を朝届けられるのを、朝、家で待たなければ ならなかった。

 

情報は、圧倒的なエネルギーをもって、ダムの放水口から、高速で吐きだれていた。

 

しかし、情報は、パソコンやスマホで、自由にアクセスできるように、情報のダムは、無数の穴が開き、水が、どんどん漏れてしまうようになり、新鮮な誰も知らない情報は存在しなくなり、ダムの圧倒的なエネルギーは、失われたしまった。

 

情報のエネルギーは、この情報落差 ダムの水のように、高圧なエネルギーをもって、放出だれていたのだが、情報の水圧がなくなって、しまうと、水は、ちょろちょろしか流れなくなってしまった。

 

日本の市場、人口、世帯には、限りがあり、新規の情報受け手がいなくなり、情報の受け手は飽和している。

しかも、テレビ局、新聞社は、複数存在して、シェア争いをしている。

新規顧客の獲得は、既存の顧客を奪う必要がある。しかし、それぞれの情報のエネルギーに大きな格差はなく、顧客を奪うエネルギーを生み出さない。多くの情報源は、同じなので、情報格差(エネルギー差)が発生しようがない。

 

情報は、ざるに溜められた水のように、無数のパソコン、無数のスマホから、どんどん流れ出してしまう。

 

複数の放送局、複数の新聞社が、ほぼ、同一内容の情報をコピーのごとく生産していくのだが、GoogleやYahoo などがそれらを拾い上げ、一つの情報にまとめあげている。

 

一つの情報源    複数のニュースにコピーされ、 GoogleやYahooなどが 一つの記事を選択し 利用者に届く

 

ここで、放送局や新聞社は、情報を差別化を図ろうとジタバタするが、情報へのアクセス権、捜査権がなどがないので、近所のおじさん、おばさん程度の情報しか入手できない。警察や消防の公式発表を待つしかないが、それは、他の放送局、新聞社と同一内容でしかない。

 

いま人気の情報源は、個人、視聴者などのYoutubeや動画である。これは、かなりユニークな情報源であり、オリジナリティーの高い可能性がある。

 

そして、それらを取り上げてみるコーナー、番組はかなり、人気である。

犬、猫、赤ちゃん、動物、自然現象は、ユニーク性、オリジナリティーに優れたニュースである。

 

能登半島大地震の全体像や鳥瞰的な視野にたつ情報をまとめることもできず、個別な個人的な事情の情報を現地取材として流しているのが、精いっぱいである。

災害復旧を取りしきり、まとめ上げている中心的な本部が存在しているはずなのだが、それらへのアクセスが、まったくできない。NHKや民放には、なにも、見えていないし、情報を整理する力がない。

 

羽田空港における事故にしても、事故が起きているのは、わかっているし、羽田空港にNHK担当者がいても、なにが、おきているのかは、説明することもできない。

結局のところ、飛行機内で個人がスマホで撮影した情報が、有効な情報になったりしている。

 

現在、個人でも、youtube,Tiktokなど、個人が自由に情報を公開できる。

特に放送局や新聞社というルート、メディアを必要としない。

テレビでは、30分のニュース時間に数十の項目を押し込めなければならないので、数秒、数十秒の映像が流すのが精いっぱいである。新聞でも、紙面は限られているので、数十文字から数百文字の情報を載せるので精いっぱいである。

 

それにくらべ、Youtubeでは、数十秒、数分、数十分という単位で情報を流すことができる、Tiktokでは、情報など、数秒でも、十分インパクトのあるものとして、流通している。

 

その意味で、テレビショッピングは、必要な情報を好きなだけ流せるので、その内容の充実ぶりはすごい。見ごたえ、聞きごたえがたっぷりある。ある程度の顧客層が見込めるとなると、別に安かろう、悪かろうというものを売る必要もなく、品質の良いものを、それなりの値段で売っても、十分、利益がでる。別に、だまして、もうける必要はない。医薬品もサプルメントも、初めての人に、試供品として売っているのであって、リピーターになってほしいわけではない。リピーターになると、初めて価格の何倍、何十倍の価格を請求することになるので、テレビショッピング側も、そのようなあくどいリピーター商売はしなくないかもしれない。あきらめずに、長年愛用してくださった皆様には、テレビコマーシャルに採用して、その負担を還元しているかもしれない。

 

さて、エネルギーを持った情報を流すことが難しくなった今日のマスコミは、エネルギー格差のあった情報が流れる勢いの失われた情報で、戦うことなってしまった。

 

黒部ダムのエネルギーを持った水が、水力発電機を回すというような出来事は、ほとんどなくなり、情報エネルギー差のない海のような状態で、水力発電機を回す方法はないかと、考えあぐねているという感じであろうか。

 

情報エネルギーがどのように発電機を回し、金を生み出せるのかという、難しい問題を抱えるようになった。

 

この現象は、教育という場でも起きている。

テレビなどない時代には、都会と田舎、海外と日本とでは、教育格差というエネルギーが存在していた。

そこには、新任でも大学という高等教育機関で勉強して、免許を携えて、日本中の田舎、離島、山奥まで、やってきて、都会や海外の事情を教えてくれた。小学校、中学校では、修学旅行と称して、都会の様子を伝えていった。

それは、田舎と都会をゴム風船でつなぐような現象が起き、都会のゴム風船は大きくなり、田舎のゴム風船は小さくなり、しぼんでいくことになった。

教育によって、日本中がつながってしまうと、落差がどんどん小さくなり、教育が持っていたエネルギーが、どんどん小さくなってしまった。